お医者さんの言葉を真に受けない父と娘

昨日、母親と話をしていて、
父が同窓会に行ってきたそうです。

例の抗癌剤治療していたときでさえ、
欠席しなかった毎年の同窓会ですが。

去年は実は、欠席したんです。

ちょうど、去年の今頃は、父は病院のべットの上でした。

去年の2月に脳梗塞で倒れたんです。
左半身不随。
私がスペインから駆けつけた3月には、
手を握ることも、歩くこともできなかった。

医者には、
抗癌剤の副作用で糖尿病になり、その合併症で脳梗塞になる。
よくあるパターンです。

と言われました。

簡単に言わないで、と思ったものです。

そして、もう仕事復帰は無理でしょう。
車の運転も難しいです。

そこまで、言われて。

ちょっと、イラときた私。
白衣を着たあなたがそんなことを言って、患者の夢を壊さないでほしいな、と。

別に統計値から算出した病気モデルみたいな、そんなの聞いてないんですけど。。

と。

特に母親には、
頑張りすぎないで。この病気は再発するんです。あなたが倒れたら終わりです。
とお医者さんが度々言っていて。

うちの母親の強さを知らないくせに。。
そんなに脅かさないで。
と思ったものです。


私は、
スペインから駆けつけて。病室に入る頃、昔のことを思い出していました。


父が癌の手術を受けた後、再手術すると聞いたときも、東京から新幹線に乗り込んで、こうやってタクシーで駆けつけました。

あれから、10年以上。

なんだか、第二のベットみたいになってしまっている、病院のベット。

また、こーゆー生活か。

と、部屋に入って、小さなベットに寝ている父を見て、正直そう思いました。

おそらく、うちの家族全員がそう思ったんじゃないかと思う。


山は、いくらでも。その先に待っている。

この家族の一員として生きていく中で、学んだことの一つです。


父は、

おう!

みたいに使える右手を挙げて、私に挨拶をしまいした。

使えない左手を一生懸命、挙げてみても数センチくらいしか持ち挙げられず、

これくらしか、動かないんだ

と苦笑いをする。


母は、なぜ、お父さんばかり。。
と電話では泣いてました。

でも、父の前では涙はでてこなかった私。

父の左手を握って、
大丈夫。治ると思うよ。
そう伝えました。

だって、そのままで終わるような小さい男には見えないから(笑)
と心の中で思いました。

父のリハビリを見ていると、
まるで赤ちゃんからやり直しみたいで、指をおる練習から始まるんです。

まるで、人生をまた始めから少しづつ生き直している様で。

私には、悪いことばかりでないような気がした。

あれから、あっという間に一年。

子供の成長を見るように、
少しづつ、いろんなことを達成していく父を見届ける日々。

もう、人生の終わりだ、と言っていた母親の予言はハズレ、

着々と、自分のしたいことを取り戻している父。

大好きな車の運転もするようになり、
母との旅行も去年の夏から再開しました。

私も夏に、参加した旅行では、
お風呂行ってくるといって1時間以上、帰ってこない父を心配していたら、

いやー溺れた!足を滑らして、立てなくて。
でも、浮かべばいいんだと思って浮かんだら手すりまで辿り着いたよ。
コツを掴んだ。ハハ
みたいな。

そう言ってちゃっかり次の日の朝も一人で大浴場に入りにいってました。

時々、母に言いたいんですが、
母が、お父さんかわいそうと心を痛めるほど、父は敏感ではないのです。
そして、父は父のペースで、誰の指図もたいして受けず、生きていける人だと。

夏すぎにはすぐに、

ひょうひょうと、仕事を再開し、

最近、
家庭菜園を耕し、
散歩も始めて。

やっと同窓会復活まで至った。

楽しかったそうです。同窓会。

みんな、優しかったそうです。
また、来年もいくそうです。

私は、自分の直感が当たると信じていますが、来年には、父はもっと自由になっていると思います。
そして、いつかまたもとに戻るんだと思います。
再発なんて、なったときに、また考えればいい。


自分の体は、お医者さんではなく、自分がよく分かっているはずです。

お医者さんは、私達より、病気に関して一般的な経験値を持った、私たちと同じ人間です。

なんか、診断も、カウンセリングも外のベンチとかに私服で隣同士に座って、やってくれたらいいのに(笑)

大事なことは、
お医者の予言は、神様の予言ではない。
自分のことをと予言できるのは、自分だけです。

ステージ4大腸がんだった父の生きる意思

題が、
何だか正しいニュアンスではないので、訂正しますが、父は元気です。
大腸癌が見つかってから、17年程度。
父はとても元気に、今日も仕事をし、畑を耕し、プラスチック容器を細かく切りながら、ごみ袋代を節約しようと、一生懸命です。

そんな私たち家族にも、
辛い時期がありました。兄が骨肉腫でなくなり、続いて父に大腸癌が見つかった17年ほど前の数年間。

私たち家族は、癌という手強い病気に苦しい思いをさせられました。何年も何年も。

あの頃の私と母親には、こんな17年後が私たち家族に待っていることは、
とてもとても考えられなかった。

けれど、
父には、見えていたのかもしれません。
続いて行く気がする自分の人生を感じていたのかもしれません。

今でも覚えていますが、
一回目の手術を終え、それでも骨肉腫が残っているために、抗癌剤をうっていたころ。

体調はあまりよくなさそうで、
肌は黒く、体重もだいぶん落ちていました。

そんなある日、
母親が私に話しかけてきました。

ねぇ、これ。

そう、差し出されたのは、1枚のはがき。

よく見ると、宛名は父親。
高校の同窓会の案内でした。

出欠を明記して返信するようになっているはがき。
同窓会の日にちは、3ヶ月も先。

母親も、私も、
キット同じことを思ったと思う。

3ヶ月後か。。。

それは、とてもとても暗くて何も見えない未来のことに思えました。

お父さんに、見せる?

そう聞く母親に、

うん。渡そう。
となんとなく答えた私。

それから、
実際母親が、父にそのはがきを渡したのかどうかも知らずにいたのですが、

数日経って、
台所のテーブルに、そのはがきがポツンと置いてあるのを見つけました。

よく見ると、

出席に、マルがしっかり書いてある。。!

涙が、ポロポロと溢れてきました。

とても悲しいけれど、どこか、ほんの少しだけうれしい涙でした。

明日さえ分からないと思って生きていると、
明日も生きようという意思を感じるだけで、
涙だ出るほどうれしいわけです。

あのはがき事件は、
あれから、何年も経って、家族の笑いはなしに変わりました。

結局、父親は、
あの同窓会に、抗癌剤治療の真っ只中、
黒い顔をして行きました。

同級生に、なんだか色黒になったなと言われたそうです。

そして、家庭菜園を始めたら、日焼けしたみたいだと返したそうです。

食べ残してきた宴会のご馳走をパックに入れて持って帰ってきて、
明日、食べようと言っていました。

父にとっては、
いつでも明日があるみたいでした。

明日はどうなるだろう。
マーカーは下がらないまま。
治療は続くまま。

毎日、毎日それ繰り返し。

でも、
ある日、マーカーが下った。そんな日が私たちにやってきた。

医者には、もう少し様子見てみましょうと言われた。

そしたら、次も、下がっていて。
その次もさらに下がって。。

マーカーが下がり出した頃の、
生活の変化は、また今度話すとして。。

大きな大学病院の名誉教授は、
不審な顔をするばかり。

確かに、骨肉腫がここにあったんだと、
そのレントゲンとにらめっこ。

いつの間にか、
父はがん患者ではなくなりました。

そして、もうあれから何回も同窓会に行って。
何回もご馳走をパックに入れて持って帰ってきました。

未来は、結局誰も知らない。
自分だけが、なんとなく、死に際に気付くだけです。

生きる人と死ぬ人

昨日、友人御見舞いに行ってきました。
彼女の病気は、大腸癌及び子宮癌。ステージ4。二種の癌が他の臓器に転移しているそうです。

余命は本人たちは聞いているはずですが、
私は特に聞きませんでした。

私は30歳半ば。
10歳の時に14歳だった兄を癌で亡くしました。骨肉腫でした。片足切り、肺の一部切り、それでも1年半の短い闘病生活でした。
その後、従兄弟も骨肉腫になり、彼女の母親も、そして父親も。みんな発病から1年から2年で亡くなり、
私が18歳の時には父に大腸癌が見つかりました。
父も転移が見つかり、また骨にも癌が見つかり、ステージ4。余命宣告もうけました。

ここまで来ると、なんとも暗い話ですが、
この話には、以外なオチがあります。これは私が経験してきた本当の話です。

あれから15年、父は生きています。
5年後の生存確率が数%と言われていた父は、昨年脳梗塞を発症するまで10年以上病気なく生きてきました。
ちなみに、脳梗塞を発症し、半身不随になっても、相変わらず、仕事をし、車で旅行をし暮らしています。

さて、私は、多くの人の死に立会い、
一つ確信したことがあります。

人は自分が死ぬ時がわかるということ。
死が近づいてくる気配がキット分かると思います。

昨日、御見舞に行った友人は、
抗癌剤治療で髪がなくなり、15キロも痩せ細っていたのですが、スペインの立派な家庭のお嬢様らしい気品はまだ健在で、(私はスペイン在住です)
背筋をピンと伸ばして歩くのです。手を貸そうとすると、いらないわッと、払われました。

彼女は強い。
でも、彼女はもう、納得をしている様子でした。
自分の病気は治らないこと、そして自分の命もそう長くないこと。

私は小さい頃から、彼女の様に納得した肉親を見続けてきました。父親以外。

父は、納得できなくて、もがいていたわけではありません。諦めない勇気があったという問題でもありません。

キット、自分の死がイメージできなかったんだと思います。医者に何を言われても。
体調がどれだけ悪くなっても、彼は今まで出来ていたことを、ただやり続けようとしていました。

父の闘病生活は、また別の機会詳しくお話ししますが、

私が思うところ、
統計では読み取れない、各個人の生命力というのは、実は、自分がその限度を知っている。

お医者さんでも、誰でもなくて、
自分が感じるものだと思います。

だから、人間は、キット死ぬ準備ができてから、死ぬんだと思います。
母親と私は、病気の人の顔が柔らかく穏やかになる瞬間を何回も見てきました。死が近づいてる瞬間です。

だから、周りは悲しくても、本人は周り程悲しくはない。そう思うのです。
大切な人を亡くしたことでやってくる、受け入れようのない悲しみは、
もう、自分との戦いでしかないのだと思います。死んだ人が可愛そうではなく、ただ自分が悲しい、その戦いです。